「緑衣の鬼」の舞台で印象的な場所といえば、麻布の高台にあるという「劉ホテル」。作中、劉ホテルは以下のように語られている。
麻布の高台に、欧州某小国の公使館をとりまして、ごく小区画の外人町ともいうべき個所がある、その片すみに、いまどき珍しい赤れんが二階建てのささやかなホテルが経営されている。その名は劉ホテル。だが、主人が中国人というわけではない。ある大ホテルの支配人次席を勤めていた男が、ドイツ人の旧宅を買い取り、少し手入れをして、外人向き高等下宿といった小ホテルを始めたのである。(中略)
古いれんが建てにはところどころ亀裂がはいって、赤さびた鉄の締め金ではちまきした個所なども見える。その不体裁を隠すためか、建物の前面に半ば以上ツタでおおわれている。れんがの赤と、ツタの緑とまだらになった建物に、ごく旧式な小さい窓が、なにか洞窟のような感じでぽつりぽつりと開いている。(以下、略 『講談倶楽部』昭和11年1月号〜12月号連載)
緑衣の怪人は大きなトランクを2個抱えて、柳田一郎と名乗って劉ホテルにチェックインする。
劉ホテルは、どうやら実在した「張ホテル」をモデルにしてるらしい。乱歩の「探偵小説四十年」には、『張ホテルのこと』と題して、以下の記述がある。
一月の項に書いてあるように、そのころ私は家を外にして放浪していることが多かったのだが、その市内放浪中、最も長く滞在したのは、町名は忘れたが、そのころ麻布区に、欧洲小国の公使館などがかたまっている区域があり、チェコスロバキア国の公使館のすぐそばに、中国人が経営する張ホテルという木造二階建て洋館の小さなホテルがあった。行きずりにそのホテルに気づき、いかにもエキゾチックな感じがしたので、入って「日本人でも泊めてくれるか」と訊ねると、美少年の日本人ボーイが出て来て、外国人ばかり扱いなれているらしい言葉使いで、私もまるで外国人であるかのような応対ぶりで、二階の道路に面した一室へ案内してくれた。(以下、略)
この「張ホテル」は、久世光彦の「一九三四年冬 乱歩」にも舞台として登場し、乱歩はここで『梔子姫』という怪しい作品を執筆することになっている。
それにしても「劉ホテル」って、いい名前だな。
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