直接には江戸川乱歩と関係ないけれど、今日は気に入っている作家の話を。今、赤江瀑の新作「狐の剃刀」を読んでいる。私はずっと赤江瀑にハマっていて、というよりも日本の幻想文学の系譜に連なっている異端の作家は皆好きで、たとえば乱歩が正統とすると、そこから屈折して変異して行った人々に惹かれている。
たとえば、久生十蘭とか小栗虫太郎とか夢野久作とか中井英夫とか、ずっと前は泉鏡花とか谷崎とかなんでしょうけど。そんな地下水脈を辿って赤江瀑にたどり着いた訳で、もうかれこれ10年以上も愛読している。この人は異端作家の特徴のひとつであるペダントリーの生臭さもたっぷりで、デビュー作の『ニジンスキーの手』のバレエの蘊蓄や、歌舞伎、能などの古典芸能の世界、刀剣や『雪花葬刺し』の刺青師などの伝統工芸の世界、あるいは香水の調合、養蜂や捕鯨などの世界を舞台にした、芸道と生の間の葛藤や破滅を、官能的な筆致で描いている。そしてかなり同性愛的である。作家自身の顔もちょっとおねえな感じもするようなしないような。
「狐の剃刀」最新作で、やはり赤江らしい世界が横溢している。表題作を含め、8編の短篇で構成されており、多くは京都を舞台としている。『狐の剃刀』では割烹の板前の修行の話や絵の話。続く『静狂記』では祇園祭と二条城の杉戸絵の話などなど。ところで狐の剃刀というのは猛毒を持つ花の名前らしい。初めて知った。
ウイキペディアで「赤江瀑」と検索してみるとかなかな面白い解説があって、そのなかの一節を転載して紹介する。
山尾悠子は赤江瀑作品のベスト5として、1「花夜叉殺し」、2「花曝れ首」、3「禽獣の門」、4「夜の藤十郎」、5 「罪喰い」または「春葬祭」あるいは「阿修羅花伝」(昭和56年6月現在)を挙げている。また小説現代新人賞の受賞の言葉で赤江瀑が引用したジャン・コクトーの「一度阿片を喫んだ者は、また喫む筈だ。阿片は待つことを知っている」を、赤江瀑の小説観をよく言い表した言葉としている。(講談社文庫『花曝れ首』解説)
「阿片は待つことを知っている」
かっこいいねえ。
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